昭和44年07月16日 夜の御理解
今日はある方がこんなことを、「あんたは信心をするようになったら冷たくなったと言われる」とこう言うんですがね、本当にこのう果たして信心さして頂くようになったら冷たくなるもんだろうか、また冷たいと思われる様な事もあるかも知れんけれども、その性根においては暖かい心なのですから、そこんところが分からせれれるところまで、信心を進めていかなきゃいけないと思うですね、確かにあのう信心のなかった時には非常に人情家であり、信心が段々分かる様になったらつまらん人情を使わないから、こう冷たくなったように見えるらしいですね、いわゆる神情家になる訳なんですね。
神の心を持って見るんですから、そう簡単な言わば親切に安売りなんかはしなくなって来る訳です、けれども私はあの神情というのは、あのうそんなに冷たく相手に感じさせれるものではなくて、本当は成程そのうという深い意味合いにおいての、情が使えれるようにならなければいけないうと思うですね、確かにそういうタイプがあるんですね。信心さして頂いていやあの段々分かって来る様になったから、もうつまらん人情を使わんようになると。だからまぁ一見冷たく見える。
また実際あのそれだけでもいけないところがあるんじゃないかとね。して今日またこの人はどっちかっち言うと、まぁメソメソする方ですね、片一方は高い、今のはまあどっちかっち言うなら高びしゃに出る方ですよね、信心のなか者ばっかりはどげなん事でん言うとか。信心なか者は分からんと、言った様な決め付けたかかり方なんですね。ですからそれを冷たいとこう見られる、また事実信心がないから、分からんとでもあるけれどもね。そういう言うなら決め付けたような生き方の人ですね。
かと言うと又今日はそのう信心のない事はないけど、時々参って来るんですけども、その人から「あんたんとこのごとあんた毎日毎日お参り、あの信心する様になってからあんた方は、あのうどこをどこにも借金しとる家じゃないの、どこどこんともあのう金を払とらんっちいう、あそこは信心しよってどうしてそのう金払いがあげん悪かじゃろうかっち、私言われたはのっち言うちから、の言われたらしんです親戚の人から。でその事が苦になってですね、もう本当にそのいわゆるくよくよしたお届けがあるんですよね。
それがそのどう言う様な事かと言うと、その人としてはその信心親戚だからと思うてまぁ、実際不如意なもんですから払ってないことも事実らしいんです、けれどもまたそのう信心のないところにまた借金してもならんけん、信心のないところんとは払うて、親戚のはまぁ後回しにしたというのが、そういう風にまぁ見られとるらしいんですよね、でそれでまたの親戚が「あっちはあんたの事をこう言いよるよ」とこう言われたもんやけんそ、れが非常にまぁくよくよした考え方になってですね。
「本当にもう私共が不徳でございますもんですから、つまりませんもんですから」ばっかり言う様なお届けなんです、もうこれはくよくよ型ですね、ですからそのくよくよ型であってもいかん、高びしゃやらであってもいけないということですよね、そしたら私その事を思わしてもらいよりましたらですね、「どちらにしても自分が信心さして頂いて日々信心の喜び、この様にも間違いのない神様の働きというものを、頂き続けておらなければいけない」っちいうね。
例えば自然の働きというものがですたい、例えば借金も良かろう、またある場合は冷たいと思われるかも知れんけれども、ここはあんまり人情を使うちゃいけないと言う様な時でもです、その成り行きと言うか自然のその働きと、自分の生き方とがいつもピターッと一致しておる、いわゆる神様の働きを身近に自分の心に頂いておる、というおかげを頂いておらなければいけないそういう場合ね。ですから教祖様のみ教えの中にもありますように、あの「先の事が知って、先の事は知っておらん」と仰るね。
どんな場合でも信心のない者は先の事が分かっていない、私共は先の事が分かっておる、どういう風に分かっておるかと言うと、必ずおかげになるとという確信と、先の事を心の中に明るく頂いておるから、だからそのうくよくよ型にもならなければ高分びしゃにもならない、言わばいつも平生でおられるという信心をね、頂いておかなければならんと言う様な事を頂いたんですけども、果たしてそういう信心を頂いておる人が少ない訳ですね、「信心しよってから借金はまりかぶって」と言われたら。
もうそれでもう「私が不徳なもんだから」と言ってくよくよ型になってしまってる。かと言うと方一方のように信心が、まぁ「もう信心のない者の言うこつばかりはもう」と言った様な風なですね、もう一段も二段も下の者にこう見ておるとね、同時にそのなるほどそういう見方だけですから、相手にゃ「あんた信心するようになって冷たくなった」という風に言われるわけなんです。ですから信心さして頂くようになったら、本当にそういうところは確かに冷たいようにも見えるけれども。
今までその人から感じとる事の出来なかった神情というものが、何とはなしににじみ出るような信心がね、やはりあのう欠げておる事を、気付かにゃきゃならんのじゃなかろうかという風に思うですね、だからどちらにしても、私はまぁ心の中には一つの平生心にゆとりと言うかね、本当に信心のない者は、そういう風な見方をするのも又最もであろうと、けれども私の心の中には、こんなにも神様との働きといわゆる自然の働きとの、兼ね合いというものがですね、ぴったり自分の心の中に頂けておるね。
この調子で行きさえすりゃおかげは間違いないのだという確信と安心を持ってですね。くよくよ型にもならず高びしゃにもならないですむ、その中央を行くような信心。それには神様をもっともっと身近に感じておらなければ出来ないと私は思うんですけどもね。まぁどちらに致しましてももっともっと身近に神様を頂いとかなければならない、時にくよくよせんで済む、時に高びしゃにならんで済む、そういうおかげを頂きたいですね。
どうぞ。